【体験談】うつ病とパニック障害に悩む人生を告白!
こんにちは、自助グループRelamateを運営している天津です!
うつ病やパニック障害などの“心の病”を発症し、「いつも疲れていて休んでも回復しない」「自分を価値のない存在だと感じる」とお悩みではないでしょうか?
この記事では、「私自身のうつ病とパニック障害の体験談」を告白します。
この記事は次のような人におすすめ!
- 心の病に苦しんでいるのは自分だけではないのか知りたい
- 将来が見えず、不安でいっぱいになる
- 周囲の人に病気を理解してもらえない
- 急に気分が良くなったり悪くなったりする
心の病を克服できるようなヒントが出てくるかもしれないので、ぜひ最後までお読みください!
それでは、どうぞ!
中学生の頃にパニック障害になる
幼少期の頃から、大きな病気をすることは一度もありませんでした。
たまに高熱を出して病院へ行くことがあっても、至って健康。
まさか自分が中学生になって病気に罹るとは、夢にも思いませんでした。
初めてパニック障害を発症
私が中学3年生の頃に、初めてパニック障害(パニック症)を発症しました。
3年生のクラス替えでは、仲の良い友達と離れ離れになってしまったため、毎日学校に行くのが憂鬱だったと記憶しています。
そんなある日、授業中に脳天から雷が落ちたような電撃が走り、心臓がとてつもない早さで鼓動をしたのです。
ドクン、ドクン、ドクッ、ドクッ、ドクドク・・・(苦しい)・・・自分は死ぬのか?
「先生、心臓が、心臓が!保健室に行きたいです。」
と声を震わせながら、必死で伝えました。
先生に保健室へ連れて出てもらい、ベッドで休むことになりました。
保健の先生に血圧を測ってもらったところ、異常な数値が出てしまいました。
(昨日はあまり眠れなかったせいか、疲れが出てしまったのかな!?)
母親に来てもらい、そのまま病院に行ったところ「異常なし」の診断が下されました。
2度目のパニック発作
翌日、朝起きた時は体調に何も異常がなかったので、学校に行くことにしました。
ところが前日と同じように、授業中に心臓がはち切れそうな早いリズムで鼓動したのです。
ドクン、ドクン、ドクッ、ドクッ、ドクドク・・・(苦しい)・・・自分の身体は、一体どうなってまったんだ?
再び先生に保健室まで連れて行ってもらい、そのまま病院へ直行するも、またもや「異常なし」の診断結果が出てしまったのです。
医者から「異常なし」と言われたけど、どう考えても自分は異常な状態であることを確信していました。
それからというもの、日常が一変して過酷な生活を送るようになったのです。
- いつ心臓の鼓動が早くなるのか分からないことの不安感がある
- 電車に乗るのが怖くて乗れない
- 電車のホームで待っていると、落ちそうな感じがする
- 高所がとにかく怖い
- 呼吸が苦しい(息がしづらい)
- 誰かが背中の上に乗っているように、全身がダル重い
- 右足に重りを付けているかのように引きずって歩く
- 急に寒気がしたり、暖気がしたりして体温調節がおかしく感じる
- ぐっすり眠ることができない
- 日中は体調不良で寝て過ごすことが多い
- 両手の指先が常に冷たい
- 右腕に震えがある
- 意識が体外に離脱したように感じる
- 勉強しても頭に入らない(記憶できない)
- 考えがまとまらなかったり、言葉が出てこなかったりすることがある
- 何もかも興味が沸かない
- やる気が高まらない
- 自分の人生に失望している
- 腰や首が慢性的に痛い
上記のような体調が毎日続いたので、中学3年生の頃はほとんど通学することができませんでした。
ほぼ一日中家で寝ているか、学校に行ったとしても保健室登校の状態でした。
中間・期末テストは、どうにか特別に別室で行うことができましたが、テスト勉強をほとんどすることができず、本来の力を発揮することができませんでした。
「苦しみから逃れられない毎日」に絶望しながら過ごしていました。
病院での精密検査の結果は!?
やはり身体のどこかに異常があると思っていたので、夏休み中に大学病院で精密検査をすることになりました。
その結果は・・・
- 聴診器→異常なし
- 血液検査→異常なし
- 尿検査→異常なし
- 心電図検査→異常なし
- レントゲン検査→異常なし
- CT検査→異常なし
- (記憶が定かではないが)骨髄の検査→異常なし
どこにも「異常がない」のです。
しかし、自分はどう考えても異常な状態であることは確信していたので、頭が混乱してパニック状態になってしまいました。
「一体、自分の病気は何なんだ!原因不明の病になってしまったのか!?」
我も忘れて、病院で泣き叫びました。
(この病を一生背負って生きていくしかない?)
(自分の病気の治療法が確立されるまで待つしかない?)
泣いていてもしょうがないと考え、病気と共に生きることを決意しました。
パニック障害と診断されない時代があった?
当時はどんなに検査をしても「異常なし」でしたが、現在だと「パニック障害」の診断をされていたと思います。
医療技術や心理学の知識が現在ほど発展していなかった時代には、パニック発作のメカニズムや治療法が十分に理解されていませんでした。
そのため、正確な診断がされずに、症状が見過ごされることが多かったようです。
現在では、パニック障害は広く認識されており、適切な診断と治療が行われるようになっています。
パニック発作を経験した人は、心療内科やメンタルクリニックなどの精神医療を専門とする病院に行くことができれば、精神科医によって「パニック障害」と診断され、薬物療法や精神療法などの適切な治療を受けることができます。
また、インターネットや書籍を通じて多くの情報が手に入るため、パニック障害についての理解の手助けにもなっています。
適切な治療を受けられないまま高校時代を乗り切る
どうにか中学校を卒業して高校に入学できた私は、得体の知れない症状に苦しみながら日々を過ごしました。
当時の病院の診断では「異常なし」とされ、薬物治療などを受けずにいました。
現在なら、素人判断ですが「パニック障害」と診断されていたかもしれません。
高校生の頃になると、通学の電車の中ではパニック発作の恐れを感じ、常に疲労感や離任感、吐き気に悩まされていました。
上手くいかなかった交友関係
せっかく友達が遊びに誘ってくれたのに、遊んでいる途中で体調が悪くなって帰ったり、断ったりすることが多かったです。
クラスメイトから「あいつは変な奴だ」と陰口を言われ、独りで過ごす日々でした。
休み時間は机で寝て過ごし、昼休みは誰もいない屋上近くの階段で時間を潰していました。
気持ちが悪くなるので、母親が作ってくれたお弁当をなかなか食べることができなくて、無理して食べてトイレで吐くこともあれば、何も食べないで持って帰ることもありました。
休み時間は本来「休憩する時間」ですが、私にとっては気が全然休まらない苦痛の時間でした。
楽しみはアルバイトと好きな子の存在
小遣い稼ぎで始めた週2回のコンビニのアルバイトは、高校生の頃の私にとってかけがえのない思い出です。
レジ打ちなどの接客は最初のうちは緊張しましたが、仕事に慣れてくると素早く行動することができるようになり、自信になりました。
仕事を一つずつ覚えてくることが成長と実感でき、アルバイトをしている時間が病気のことを忘れられる唯一の時間でした。
店長やオーナーからも褒められたり、同じシフトに入った人と仲良くさせてもらったりするなど、“仕事をする楽しさ”を味わえたことから、個人的には高校生からアルバイトをすることをオススメしたいです。
また、同じクラスにいた好きな女の子は、私の心を支えてくれた大切な存在でした。
「おはよう」と必ず挨拶をしてくれたり、体調が悪くて気持ちが塞ぎ込んでいると「大丈夫?」と声をかけてくれたりするなど、本当に優しい子。
今でも「あの時はありがとう」とお礼を言いたいですね。
剣道部で体力や精神力を鍛えるが…
高校に入って初めて剣道部に所属しました。
しかし、何の前触れもなく急に疲労感や不安感に襲われてしまうので、部活の練習をを欠席することが度々ありました。
この得体の知れない症状を克服するためには心身ともに鍛えるしかないと思い、剣道部に入って練習を積み重ねたものの、決して症状が良くなることはありませんでした。
当時、パニック障害への理解が自分や周囲にあれば、体調に合わせて剣道の練習ができたかもしれません。
体調が万全の状態で剣道の練習に打ち込むことができなかったことが、悔やんでも悔やみきれません。
また、慢性的な腰痛にも苦しんでいました。
剣道部の練習で腰を痛めているのだろうと思い、整骨院に通ったり、腰に湿布を貼ったりしていましたが、決して治ることはありませんでした。
うつ病に変わった?大学時代
パニック障害でパニック発作を恐れていた高校生の頃に比べて、体調が少し良くなっていった傾向がありました。
けれども、よく分からない不安や恐怖が続いたり、興味や関心があることが薄れたり、常に疲れている感じはありました。
大学生になると仲の良い友達ができ、最初の一年間は充実した学生生活を送ることができていました。
またしても上手くいかなくなった交友関係
しかし、一年が経つと症状が悪化してしまい、友達の誘いを断ることが増え、次第に仲が悪くなってしまいました。
「また高校生の時のように交友関係が上手くいかない」「どうしてこんなに疲れやすいのだろう?」と何度も悔やみました。
友達の数は少なくなりましたが、支えてくれる親友はいました。
この頃から体力づくりのためにジムに通い始めました。
常に疲労感があるのは「体力が足りないせいだ」と思っていたので、身体を鍛えれば普通の健康な状態に戻ると思っていたのでしょう。
結局、どんなに筋トレをしても疲労感が取れることはありませんでした。
大学の単位を大量に落とすことに…
大学では授業にきちんと参加して順調に学習を進めていましたが、ある時から履修した科目のテキストを読んでも頭に入らなかったり、先生の話が全然理解できなかったり、自宅で勉強しても思考が働かなかったりするなど、困惑と焦りを感じていました。
そんな中、年度末の試験では大量に単位を落としてしまうことになったのです。
「集中できない」「判断できない」「考えることができない」「分からない」という言葉が巡り、「一体、自分の頭はどうなってしまったのだろう?」と非常に悩みました。
窮地に立たされた私は、大学を退学しようか迷っていました。
何となく大学に通う日々が過ぎいていき、次第に精神的に追い詰められていきました。
パニック障害からうつ病に変化した!?
大学に通っていた頃の私は、パニック発作の症状が完全に無くなり、その心配もしないようになりました。
ただし、思考力や記憶力が低下するとともに、不安感は疲労感はずっと消えないままでした。
- 常に疲労感がある
- 将来に対しての強い不安感がある
- 極度の緊張感がある
- たまに動悸がする(心臓の音が気になる)
- 感情があまり動かない
- 眠気に襲われる
- 思考力や集中力が低下している
- たまに吐き気がある
- 食事をしても美味しいと感じない
- 死を考えることがある
中学生の頃から謎の不治の病に罹っていたと思っていた私は、病院に行くことはしませんでした。
病院に対して不信感を抱いていたことも事実です。
今思えば、当時はおそらくパニック障害から「うつ病」に徐々に変化していったのではないかと思っています。
教員を目指すために教育学部へ編入学
将来の明確な夢や目標が見出だせないまま、大学生活を過ごしていました。
ある日、テレビ番組を見ていた時に、出演者の一人が「自分のやりたいことを毎日考えていたら夢が見つかりました」と言っていたことを聞き、その翌日から電車の中で「自分は何をしたいのか?」と自問自答を繰り返しながら通学するようにしました。
その甲斐があって、私は「子どもが好き」「教えることが楽しい」という“自分の強み”が分かり、小学校教員になることが夢になったのです。
ところが通っていた大学では教育学部が無かったため、教員になる夢を実現するために方向転換をするしかありませんでした。
そこで決めたのが「編入学」です。
教育学部がある大学に入って、小学校の教員になること目指すことにしました。
次第に体調が良くなり始める
小学校の教員を目指そうと行動し始めてから、体調が徐々に良くなっていきました。
こう書いてしまうと、精神疾患は「やっぱり気持ちの問題だ」と解釈されてしまうかもしれませんが、偶然にタイミングが重なっただけだと思っています。
体調が改善しただけでなく、小学校の宿泊行事の引率に参加する機会があったり、非常勤講師として採用されたりするなど、まるで小学校の教員になるための道が開いたかのように、順調に進むことができました。
そして、教育学部で小学校教員免許状を取得し、教員採用試験に合格して、晴れて小学校教員になれたのです。
まさに人生が大逆転した瞬間でもありました。
順調に仕事ができた若手教員時代
教員になって、うつ病やパニック障害の症状は全くありませんでした。
週に2回の筋トレで健康維持に努め、食事も三食(一食は給食)を普通に摂っていました。
毎年実施される健康診断ではオールAで、心身ともに完全回復できた状態です。
しかし、中学時代から続いていた慢性的な腰痛には悩まされていました。
慢性的な腰痛の原因
整骨院や整形外科に行って治療を受けても、一時的には腰痛が治まるが、数日経つと再び痛みが走る。
腰をケガをしたりギックリ腰になったりしたわけではないのに「腰痛の原因は何だろう?」と考えていた時に知ったことが、「ストレスと腰痛には関係がある」というものでした。
ストレスが高まると、体は自然に緊張状態になります。
特に背中や腰の筋肉が硬くなることがあり、これが痛みや不快感を引き起こす原因となることがあります。
また、ストレスは体内の炎症反応を引き起こすことがあり、これが腰痛を悪化させる要因になることがあります。
ストレスホルモンが炎症を促進することで、痛みが増す場合があるのです。
さらに、ストレスが持続すると、中枢神経系が過敏になり、痛みに対する感受性が高まることがあります。
これにより、本来はそれほど痛くないはずの刺激に対しても、強い痛みとして感じるようになる場合があるのです。
「心因性腰痛」とも呼ばれているようです。
充実した教員生活
若手教員時代は着実にキャリアを積んでいきました。
学級担任になったのは主に中学年(3・4年生)と高学年(5・6年生)でした。
可愛い子どもたちに囲まれ、厳しくも優しい先輩の先生方に指導を受けながら、充実した教員生活を過ごすことができていました。
勤務している学校で研究授業も何度も経験しましたし、外部の研究会に所属して研究授業や研究発表に取り組めたことは、教員としての自信にもなっています。
また、毎年のように宿泊行事の引率に参加し、子どもたちと思い出をたくさん作ることができました。
近い将来、主幹教諭になって学校の中心的な役割を担い、ゆくゆくは教頭や校長などの管理職を目指そうと、充実した教員生活を送っていました。
突然のパニック障害の再発
教員としての年数が経つにつれて、重要なポジションを任されるようになり、充実感はありながらも疲労困憊の毎日を過ごしていました。
やっとの思いで一学期が終わり、夏休み期間の仕事も一段落して安心していた矢先のことです。
夜、自宅の椅子に座っていた時に、何の前触れもなく心臓の鼓動が速くなったのです。
ドクン、ドクン、ドクッ、ドクッ、ドクドク・・・(苦しい)・・・なんで、また?
すぐにパニック発作だということが理解できました。
学生時代に治ったはずだと思っていたパニック障害が、どうして再び起きるの?
必死で心臓が落ち着くのを待ちました。
もう気が狂いそうです。
しばらく経つと心臓の鼓動が落ち着いてきたのですが、また再び速くなってきました。
本当にヤバいかもしれない!?この状態は…。
ベッドに横になってどうにか眠ることができましたが、朝起きてからずっと気持ちがザワザワして嫌な気分です。
とにかく気持ちが悪くて落ち着いていられませんでした。
心療内科(精神科)のある病院に電話をしたが…
実は、小学校教員になってから数年後、「仰天ニュース」というテレビ番組で「パニック障害 死の恐怖」というタイトルを放送を見たことがありました。
この時に、初めて「自分が学生時代に苦しんでいた原因は、パニック障害という病気だったかも知れない」とパニック障害の存在を知ったのです。
テレビで放送していた内容が、ほとんど私が苦しんできた症状と同じでした。
もし何も知らなかったら、きっと心臓を診てくださる循環器内科や心臓血管外科がある病院に連絡していたでしょう。
心臓の鼓動が速くなった時は「パニック障害だ」ということが確信に近かったので、すぐに心療内科(精神科)がある病院を調べて連絡をしたのです。
ところが、どの病院に電話しても夏休み期間中の初診の予約はいっぱいでした。
「心療内科(精神科)って、そんなに多い人が通院しているの?」と驚くとともに、「病院で診てもらうために相当な期間を待たなければならない」と落ち込んだことを今でも鮮明に覚えています。
一番早く診てもらえる病院で予約し、初診日まで待つことになりました。
力が尽きて倒れる
夏休みが明けてからも、「またパニック発作が起きたらどうしよう?」という恐怖心がある中で仕事をしていました。
頭がフワフワした感覚で、気分が悪く、倦怠感が酷い状態でした。
「あと数日間の辛抱だ」と毎日のように初診日までカウントダウンをしていましたが、とうとう限界が来てしまい、倒れ込んでしまったのです。
病院に電話をしたところ、診察をしてもらえるということで予約をしました。
その結果、初めて「パニック障害」と診断を受けることになったのです。
学生時代から苦しんできた病気が「パニック障害」だったということが判明したので、積年の疲れがドッと出たように感じました。
同時に、「またあの地獄を味わうことになるのか…」と絶望感を抱きました。
パニック障害を再発した原因を自分なりの分析
教員になってから一度もパニック障害の症状が出ていないのに、どうして再発してしまったのでしょうか?
おそらく、原因は長時間労働による過労だと思っています。
- 6年生担任
- 単学級(一つの学年に一つの学級しかない状態)
- 教務主任
- 外部の研究会で研究授業
- 研究発表
- 宿泊行事の準備と引率
- 中堅教諭等資質向上研修
- 休日出勤
- 夜8時まで時間外勤務
- 自宅でのリモートワーク
上記のような仕事をしている現役の教員がいらっしゃると思います。
だからと言って、全員がパニック障害などの精神疾患になるわけではないのです。
しかし、精神疾患は誰でもなる可能性があると言われています。
当時、私は責任のある仕事を一任されて意欲に溢れ、あまりストレスを感じていないと思っていました。
でも実際は、過重なストレスと疲労を抱えており、それが引き金となってパニック障害を再発してしまったと考えています。
完全に回復していたと思っていたので、再発したことをすぐに信じることができませんでした。
短期間の休養を経て復帰へ
パニック障害が再発して診断を受けたばかりの頃は、ベッドから全く起きられない状態が続きました。
以下のような症状が心身に出ていました。
- 吐き気
- 動悸
- 目まい
- 頭痛
- 手足が冷たい
- パニック発作への恐怖
- 死への恐怖
- 強い不安感
- 焦燥感
- 眠気
- 倦怠感
- 脱力感
- 首の痛み
- 腰痛
- 悪寒
- 思考力の低下(人の話が理解できない、言葉がまとまらないなど)
毎日が本当に苦しくて、「この地獄から抜け出すにはどうしたらいいのか?」とばかり考えて過ごしていました。
ひたすらテレビ番組を見て気を紛らわせていても、身体の痛みだったり、精神的に不安定になったりして、生きた心地がしませんでした。
気持ちが悪くて、食事も喉が通らない状態に。
しかし、なんとか食べることができた唯一のものは「inゼリー」でした。
しばらくinゼリーしか口にできなかったことと、ずっとベッドで寝たきりだったため、体重が5キロも減少してしまいました。
顔も青白く、げっそりしていました。
仕事へ戻ろうとする焦りと虚無感
「仕事をやらなければならないのに」「寝ているわけにはいかない」「職場のみんなに迷惑をかけている」と思い、ベッドで起き上がろうとするのですが、力が入らなくて無理でした。
これまで長期間休むことがなかったので、「休み方」を忘れていました。
身体は休めても、心が全然休まらないのです。
主治医から「しっかりと休んでください」と言われているのに、自分では「休んでいる場合じゃないよ」と反発したかったのでしょう。
それに、自分が休んでいることを認めたくなかったのです。
今思うと、それが自分自身を苦しめることになっていたかもしれません。
なんとか職場に復帰
2〜3週間が経ち、薬の効果も出てきたので、少しずつ調子が良くなってきました。
6年生を担任していたこともあり、無事に卒業をさせたいという強い思いから、復帰をすることを決断しました。
ただ、復帰してからの記憶が少ししかありません。
これ以上は体調が崩れないようにしようと定時で帰ることを心がけ、必死で仕事をしていたことだけは覚えています。
そして、3月に6年生を卒業させることができました。
本来ならば、卒業式が終わった後に「卒業を祝う会」を開いて、同僚の先生達からお祝いの言葉をいただくところですが、私はその会に参加する気力さえ残っていませんでした。
もう限界を超えていました。
4月になり、長い休職期間に入ることになったのです。
出口の見えない休職期間
普通の風邪なら、薬を飲んで数日間寝ていれば治るでしょう。
骨折なら、ギプスを巻いて固定し、長期間安静にしていれば治ります。
風邪や骨折は大変ではないということを言いたいわけではありませんが…。
ところが、精神疾患の場合は「いつ治るのか?」が全く分からないのです。
治し方も人によって様々です。
しかも、聴診器を当てたり、喉の奥を診たり、レントゲンを撮ったりしても、精神疾患であるかどうか分かりません。
もちろん、血液検査をやっても、尿検査、CT検査などを実施しても判明しません。
つまり、治ったかどうかも非常に分かりにくいのです。
ここが精神疾患の厄介なところです。
薬の副作用との戦い
休職期間中の症状としては、短い期間休んでいた時とほぼ同じような状態です。
「再び地獄がやってきた」と思いつつも、「やっと休める」と安堵感もありました。
とにかく寝たくて、寝たくてたまりませんでした。
そして、毎日パニック発作への恐怖や様々な不安感がありましたが、同時に薬の副作用との戦いでもありました。
症状によって薬の量が少しずつ増えていったのですが、その副作用がつらくてたまりません。
とにかく気持ちが悪く、吐き気が酷かったです。
口から胃が飛び出そうになるくらい、吐き続けました。
でも「絶対に治したい」という気力だけで頑張っていました。
外に出ることも戦い
症状が落ち着いてきたものの、長い間ベッドで寝ていたので体力が極端に落ちていました。
主治医からも「外に出て光を浴びるようにしてください。無理をしないように。」と言われていたので、勇気を出してみたものの一人ではどうしても怖くて踏み出せずにいました。
そこで行なったのは、少しずつ行動の範囲を広げる方法です。
まず玄関を出ることから始めて、階段を降りる、家の前の道路を歩く、近くのお店に行く、駅まで行くなど、距離を伸ばして遠くまで歩くようにしました。
症状に波があるため、すぐに範囲を広げることはできず、外に出かけることができる日もあれば、全く外に出れずにベッドで一日中寝ている日もありました。
学生時代とは違って電車に乗ってパニック発作を引き起こしてしまうのではないかという恐怖心はなかったので、電車に乗って遠くに行くことにも挑戦し、少しずつ自信をつけていきました。
復職に向けた準備
パニック障害の症状が3歩進んで2歩下がるような形で少しずつ治ってきた感触があったので、主治医の許可を得て復職の準備を始めました。
以下に書いたトレーニングは、どれも順調に進んだものはありません。
何事もなくトレーニングを進めることができればいいのですが、予定をしていても行くことができなかったり、ジムに着いても気分が悪くてすぐに帰ったこともありました。
体力を戻すためのトレーニング
休職中に落ちてしまった体力を取り戻すために、私はいくつかの方法を試しました。
まず、スポーツジムに通い、筋力トレーニングを行いました。
筋トレは、体全体の筋肉をバランスよく鍛えることができるため、持久力やスタミナの向上にも役立ちました。
また、ダンスのプログラムにも参加しました。
ダンスは楽しく体を動かせるため、ストレス発散にもなりますし、リズム感や柔軟性を高める効果もありました。
さらに、ランニングマシーンで走るようにしました。
ランニングは心肺機能を高め、持久力を養うのに最適でした。
仕事に戻るためのトレーニング
体力が戻ってきたら、次は仕事に必要なスキルを再確認するためのトレーニングを行いました。
私は近隣のカフェにパソコンを持って通い、仕事の感覚を取り戻すためにデータファイルの整理や教材研究などの作業を行いました。
カフェという公共の場で作業することで、自宅とは違う環境に身を置き、集中力を高める効果がありました。
カフェでの作業では、まず自分にとって最も集中しやすい時間帯を見つけることから始めました。
朝の静かな時間帯や、午後の少し混雑する時間帯など、環境に応じて作業を行いました。
また、作業を効率的に進めるために、事前にタスクをリストアップし、優先順位をつけて取り組むようにしました。
このようにして、徐々に仕事のペースを取り戻すことができました。
職場でのリワーク
4月の職場復帰を目指して、私は2月から定期的に職場に通い、仕事の手伝いを始めました。
職場に足を運ぶことで、実際の業務環境に慣れ、同僚や上司とのコミュニケーションを再構築することができました。
職場でのリワークは、復帰後のスムーズな業務遂行に不可欠だと感じました。
最初は簡単な仕事から始め、徐々に業務量を増やしていくことで、無理なく仕事に復帰することができました。
具体的には、書類整理や簡単なデータ入力などの業務から始め、発言はしませんが会議に参加させてもらったり、4月からの新年度の準備の手伝いをしたりました。
このように段階的に業務に慣れていくことで、多少のストレスを感じたものの、自然に職場に戻ることができました。
お世話になった職場の先生方には本当に感謝しています。
カウンセリング
2週間に1回程度のカウンセリングを受けていました。
学校にはスクールカウンセラーが週1回のペースで来て、保護者や子どもの支援を行なっているので、カウンセラーの仕事を何となく知っていましたが、実際にカウンセリングを自分自身が受けるのは初めてでした。
カウンセラーは「聴くプロ」と言われることもありますが、本当にその通りで、私が中学生時代から抱えているパニック障害やうつ病のことを全て聞いてくださいました。
これまで周囲が理解できなかったことを受け止め、共感し、質問をして感情を深堀りしてくださったおかげで、気持ちがラクになりました。
職場の学校にカムバック
約1年間の休職期間を経て、なんとか職場の学校に復帰することができました。
多くの先生方に「お帰りなさい」と言ってもらえて本当に嬉しかったです。
負担軽減のため主任などの役職は外され、小学校教員として再スタートです。
しかし、パニック障害などの精神疾患には「完治」はありません。
その代わり「寛解(かんかい)」と言って、病気が一時的に症状が軽減されたり、症状が全く見られなくなったりする状態になります。
私の場合は、パニック障害の症状が落ち着いているだけだったので、復帰しても薬の分量はほぼ変わっていませんでした。
無理難題の条件
寛解の状態を維持しながら働き続けるための以下の条件を、主治医から出されました。
- 定時で帰る(残業しない)
- 無理をしない
- 疲れたら休む
- 自宅で仕事をしない
- 休日出勤しない(土日はしっかり休む)
私にとっては「無理だ」「不可能」と思うような条件でした。
なぜなら、これまでの小学校教員生活において「残業や休日出勤・自宅勤務をして当たり前」ということが前提で、ずっと働き続けてきたのです。
こららを全てできない状態で、どうやって仕事をするのでしょうか?
お金を稼いで生きるために働き続けることしか選択できない私は、残業をしないで定時で帰り、なるべく疲れないように働く方法を模索し始めました。
初めてのセルフ働き方改革
私が最初に定時に帰るために実行した方法は、「とにかく定時で帰る」というものでした。
仕事がすべて終わっていません。
やるべきことはたくさんあります。
しかし、パニック障害の寛解を維持するためには、残業しないで定時に帰らなければなりません。
仮に定時で帰っても仕事がなくなるわけではないので、どうにかして効率的に処理する必要があります。
そこで「残業ゼロ」「定時退勤」「生産性」「効率性」などのキーワードが書かれたビジネス書を買い込み、自分のできそうなことをリストアップしました。
- デスク周りの整理整頓
- 残業している職場の空気を読まない
- すぐできる仕事はその時、その場で処理する
- シングルタスクで行動する
- 完璧を目指さない
- 周囲の人を頼る
不思議なことに「定時で帰る」という意志が強いと、本当に定時で帰ることができるようになるのです。
私にとって初めて働き方改革を実行した瞬間でした。
新しい職場の学校へ異動
公立学校教員は一定の年数が経つと、他の学校へ異動しなければなりません。
私もそのタイミングだったので、新しい職場へ異動することになりました。
不安要素があったのは、「異動した職場でも自分が実行してきた働き方改革が通用するのか?」「通勤距離が長くなってしまったので、精神的・体力的に大丈夫か?」という問題です。
復職してからはパニック発作などの症状が全く出ていなかったことが、唯一の安心材料でした。
定時で帰ることができない日々
復職直後から実践してきた働き方改革をしようにも、新しい学校の職場になると覚えなければならない仕事がたくさん出てきて、なかなか定時で帰ることができませんでした。
一年間を通して行事などを経験していれば、学校の内情が把握でい、計画的に働くことができるのですが、異動したばかりの職場では非常に難しかったです。
主治医から復職する時は「新しい環境」より「元にいた環境」の方が仕事がしやすいと言われていたのは、このことだったと実感しました。
本来なら「寛解の状態なのだから定時で帰る」と目標を立てて働くべきだったのですが、「一刻も早く新しい職場の先生方から認められたい」という思いが強かったために、無理をしてしまいました。
また、一部の同僚の先生との確執もあり、人間関係で悩んでいました。
長い通勤時間の疲労
通勤距離が長かったため、早く起きて自宅を出発しなければなりませんでした。
電車を乗り継いで、バスにも乗って、ヘトヘトの状態で到着していました。
普段から使っていた電車の遅延や運転の見合わせがあった日には、遠回りして職場に行かなければならないため、1時間目に間に合うギリギリのところで学校に着き、汗だくで授業をしたことが何度かありました。
2学期の途中まで頑張ることができたのですが、体調が悪化してしまい、通勤できなくなってしまったのです。
まさかのうつ病の再発!?
普通に仕事をしているだけなのに、日に日に体調が悪くなってしまったのです。
授業をしていても具合が悪くて途中で座り込んでしまうし、子どもたちの名前や学習内容が思い浮かんでこなかったり、同僚の先生と話し合っていても理解できなかったりして、頭がパニックになってしまいました。
一年間という休職期間を経てパニック障害の症状が良くなり、寛解の状態になっていたと安心していたので、とても驚きました。
やはり「完治」ではなく「寛解」なのです。
寛解とは病気が一時的に症状が軽減されたり、症状が全く見られなくなったりする状態のことを言います。
寛解していた症状が出てきて、再び私に襲いかかってきたのです。
診断結果はうつ病
主治医の問診を受け、出された診断結果は「うつ病」でした。
パニック障害ではなく、この時に人生で初めてうつ病と診断されたのです。
見出しに「まさかのうつ病の再発!?」と書きましたが、おそらく大学時代にうつ病になっていたのではないかと推測しています。
私が精神疾患について無知でしたし、周囲で知っている人が誰もいませんでした。
現在のようにネットやテレビ番組で、精神疾患に関する情報があまり出ていなかったと思います。
当時は以下のような症状がありました。
- 絶望感
- 不安感
- 疲労感
- 倦怠感
- 吐き気
- 強い眠気
- 頭痛
- 集中力、思考力、記憶力の低下
- 意欲の減退
- 腰痛
- 首の痛み
パニック発作の症状は全くなかったですし、上記のうつ病に該当する症状が多かったので、うつ病だと診断されたのだと思っています。
朝は特にダメで、身体が重くてベッドからなかなか起きることができませんでした。
吐き気も酷く、何度もトイレに行くような状態が続きました。
「私はどうしていつも精神疾患になるのだろう?」「誰か精神疾患にならない方法を教えてほしい」「疲れたら熱が出て、寝れば回復できるように、すぐに治りたい」と悔しさ、情けなさ、申し訳なさでいっぱいになりました。
2度目の休職
2度目の休職のため、精神的にショックを受けていました。
まさか、人生で2度も休職するなんて考えたことがなかったからです。
若手教員時代にキャリアプランを立てたことがありましたが、そのシートに「休職」などの言葉を書いたことも、書こうと思ったこともありませんでした。
私が知りたいのは「どうして自分が精神疾患になってしまうのか?」「死ぬまで寛解状態を維持できる方法はないのか?」という2点です。
分かれば自分でも対策を立てようがあるのですが、全く不明です。
主治医に聞いても、精神疾患に関する本を読んでも、明確な答えが見つかりません。
いつの日か、はっきりとした答えが分かることを強く願っています。
しばらく実家で療養
体調が少しずつ回復してきたことを機に、実家でしばらく療養することにしました。
両親の温かい言葉や食事で心が癒やされました。
朝の爽やかな空気を吸いながら、朝食の支度をしてくれる母の姿を見ていると、何故か心が落ち着きます。
父は一緒に散歩に連れて行ってくれ、その間に色々な話をしました。
自然の中を歩きながら、昔の思い出話やこれからのことについて語り合う時間は、私にとってとても貴重で、回復への大きな一歩となりました。
実家での生活は、以前の忙しさとは全く異なり、ゆったりとした時間が流れていました。
朝食を一緒に取ったり、夕食後にテレビを見ながら笑い合ったりと、家族との絆を再確認する日々が続きました。
この療養期間を通じて、私は家族の大切さを改めて実感し、自分がどれだけ支えられているかを強く感じました。
そして、エネルギーを徐々に蓄えることができました。
再起をかけた準備
もう二度と精神疾患が発症して、休職をしたくありません。
体調を戻して、普通に働ける状態にするためにはどうすればいいのか考えました。
1回目の休職期間で経験したことを活かして、同じように「体力を戻すためのトレーニング」「仕事に戻るためのトレーニング」「職場でのリワーク」の3ステップで行いました。
カフェまでウォーキング+パソコン作業
精神疾患に関する本を読んだ際に、パニック障害の症状を悪化させる要因の一つとして、乳酸の蓄積が関与している可能性があることを知りました。
どうやら運動やストレスによって乳酸が蓄積すると、体内の酸性度が増し、過呼吸を引き起こすことがあるそうなのです。
そこでジムに通って筋トレをするのはやめて、運動をウォーキングに変えることにしました。
ただウォーキングだけを目的にするのは嫌だったので、仕事に戻る準備をするためにカフェでパソコン作業することと合わせることを考えたのです。
自宅から歩いて30分くらいにあるカフェをリワーク場所に設定し、そこで数時間パソコンで教材研究をしたり読書をしたりしました。
復職の1か月前から勤務先の学校に戻り、授業はやりませんでしたが通常の勤務に近い仕事を続けて、心身を慣らしていきました。
グループカウンセリング
通院している病院では問診だけでなく、グループカンセリングを受けるようにしました。
待合室では多くの患者さんが訪れていることは知っていましたが、その患者さんたちがどのような悩みや問題を抱えているかは分からなかったですし、同じ気持ちを共有することで自分が変われるのではないかと考えたからです。
グループカウンセリングでは、以下のようなプログラムを行いました。
- よかったこと・できたこと探し:些細と思うことでも、積極的に自分で良かったことやできたことを見つけてメモしていく。例えば、朝早く起きれた、美味しいパスタを食べた、映画を見たなど
- 感情の点数化:一日に行動したことについて点数を付けていく。例えば食事50点、散歩80点、起床30点など
- 認知行動療法に関する授業:考え方・行動へのアプローチという工夫を学んだり、うつ病に特有な 「考え方のくせ」を知ったりする。
- 問題解決技能法に関する授業:問題を整理し、解決につなげるための「行動」や「対処法」を導き出す方法を学ぶ。
グループカウンセリングを通じて、自分の考え方を少しずつ変えることができただけでなく、「うつ病などの精神疾患で苦しんでいるのは自分だけでなく、他の人も同じように苦しんでいること」を感じ取ることができたことです。
私は初めて精神疾患を抱えている人と話すことができました。
朝起きられなかったり、食事が摂れなかったり、職場に行けずに悩んでいたりすることが分かり合え、視野が広がったようでした。
精神疾患で本当につらい病気なんです。
風邪のように咳をしていませんし、骨折のように包帯を巻くことはありません。
ガンのように画像診断や内視鏡検査をしても分かりません。
見た目には非常に分かりにくいかもしれませんが、当事者は実際に苦しんでいることをぜひ理解してほしいです。
理解してくれるだけで気持ちが救われる人がたくさんいます。
そして現在
2024年から自助グループRelamateを立ち上げました。
世の中には、私のように、いやそれ以上に、うつ病やパニック障害などの“心の病”に苦しみ、悩み、つらい日常生活を送っている人がいるでしょう。
ところが、心療内科やメンタルクリニックに行くと、待合室で治療を受けている方々と顔を合わせることがあっても、そこで当事者同士でお話をする機会はほとんどありません。
また、心の病は周囲からの理解が得られにくく、一人で不安や悩みを抱え込んでしまうと、孤独感や疎外感を感じてしまいます。
同じような病気や苦しみ、困りごとを抱えた当事者だからこそ、きっと分かち合えることがあるだろうと考えています。
お互いに気持ちの共有や情報の交換をすることで、心が穏やかになったり、今後の生活や治療に役立ちそうなヒントが得られたりできるかもしれません。
自助グループRelamateが「当事者の仲間と共有できる癒やしの居場所」になってほしいと、強く願い、運営をしていきたいと思います。
まとめ
今回の記事では、「私自身のうつ病とパニック障害の体験談」について解説してきました。
また症状や近況に変化がありましたら、この記事に加筆していきたいと思います。
以上、最後までお読みいただきありがとうございました。
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